機械の知能

シンギュラリティ?来たら面白そうですよね

前回のエントリに関連して、別の視点である機械の知能もよく目にする面白い話題なので 自分なりに考えてみたい

それで結局、レイ・カーツワイルがいうようなシンギュラリティは、誠に残念ながら、起こらないのではないかという気がする

そう書きつつ、この予想が外れることを期待していて、とんでもないものを見たい×3、と思ってはいる

シンギュラリティが始まったら、ある時点で神の奇跡を見ることになり、間もなくして映画のようなディストピアに塗りつぶされるらしい

ワンチャンAIの舎弟として、人類は永遠に若く、飽きずに楽しんで暮らせるかもしれない

そんなうまい話があるだろうか?(あるといいですよね...)

期待するもの、想定するもの

AI進化がある時点から際限なく加速していくなら、Lucy とか インターステラーとか TENET のような、次元を超越したり、空間を飛び越えたり、時間さえさかのぼる方法も有限時間内に発見されてしまうだろう

ならばどの時点でシンギュラリティが起ころうが、宇宙はいつもその支配下であり、我々はもうその中だと考えて差し支えない(Matrixのような結末?)

それでも日常はいつもの日常なのだから、なんやかんや心配するような影響はなさそうである

シンギュラリティの条件で欠けている、と思うもの

それは、機械自身の評価基準だと考える。

個人的に技術的特異点永久機関と印象がダブる。ナイーブな試みはすべて現実の物理に却下されてしまった。そんな甘くないよ、と。

レイ・カーツワイルのいうシンギュラリティの根拠は計算能力の爆発だという。そして、人間をはるかに超えるスピードで自身の計算能力を改善していくらしい。

そこで、問題なのが「改善」だ。 いったい機械は何をもって改善できたと判断するのだろう。 単位時間あたりの計算スピード?(そんな装備で大丈夫か?

Deep Learning は人類の膨大な活動記録を大量に食べることで、人間をうならせる成果を上げている。でもそこには人間の活動記録と人間の評価目線が両方投入されている。その人類をはるかに超えて機械は何を基準に加速度的に「改善」を推し進めるのだろうか。

翻って、我々人類が今改善だとか素晴らしいとみなしているものが普遍的な基準とは限らない。もっと斜め上の評価基準が見つかって、それまでの基準はおバカな恣意的な夢だった、と分かる日が来るかもしれない。シンギュラリティにそんなポテンシャルが含まれているなら、あきらかに膨大な活動記録を食べる以上の手法を機械自身が見つけなくてはいけない。

今のAIはちょっと趣向の変わったブルートフォースをやっているように見える。それでは計算能力がいくら爆発しても大したことにはならなそうである。人類の領域をはるかに超えていく段階で、無限のバリエーションを採り得る基準すべてからこちらがベターだと自分で決めて検出し続けなくてはならなくなる。現在の基準の中での改善ではなく、無限の基準の中からなのでごく少なく見積もっても ∞ × ∞ の問題をねじ伏せる必要がある(∞の軸はもっと沢山あるかもしれない)

ちょうど CPU コアは加速度的に際限なく増えていくが, それぞれが追加された途端 while (true) { brute_forcing('100093983242xxxth'); }アサインされて、全体として沈黙を守るイメージだ。 (私が妄想するイメージ)

評価基準が生まれてくるところ

それは皮肉にも生き物の宿命の力だと思っている。

生き物は同じことをやりつづけていると疲れてミスして飽きてしまう。 機械はミスしないし、飽きないし、電力さえ供給すれば休む必要もない。

そこが運命の分かれ道。
命に限りがあるために、無限に終わりそうもないことはやっていられない、それじゃあ何をやりますか、これこそが評価基準のはじまりである。

人類の知能がゆっくりとしているが次元を飛び越えることができるのは、実はそんな生物的条件の結果ではないか、と考えてみた。

まだ希望はある

シンギュラリティは、恐れおののくような神ではないかもしれない。それでも人間の評価基準を参考にして人間に寄り添う形で新たな示唆を与えるなど、意外にもというか望ましい形で恩恵をもたらしてくれそうではある。

身体の復元や難病克服、エネルギーの高密度化や丈夫で軽い物質の組成、二次元⇔三次元といった仮想現実など、人類目線でありがたいものの発明を劇的に加速してくれるのは間違いないだろうな。

賢いということ

きっかけ

Youtube を観ていると最近「〇〇な人は頭悪いです」というフレーズをちょくちょく見かけた。そんな単純なわけないよ、とスルーしても何度もホームに出てきて、「興味がない」しても不死鳥のごとく甦る。

一体何があるんだろうと思って観察してみると、自分の見た範囲では発信者は意図的にか「自分の頭が良い」とは決して発言しない点が興味深かった。

だから、お前こそ頭わるいじゃん、という反射的な指摘を引き出しつつ、それがある意味的外れになっている構図が巧妙だと感心した。そして、「頭がよい」って何よ、とモヤモヤした。

頭が良いってどういうこと

自分なりに考えてみたところ、まずIQのことが思い出され、するとフォン・ノイマン、以上となった。これはヒドイ。つまらないし参考にならない。

フォン・ノイマンを置いてしまうと並みいる歴史上の大天才達すらたかが地球人レベルでしょう?と色あせて見えてしまい、一体何の話だっけということになる。

だから個体の能力の測定値はその辺にして、誰しもが持っているポテンシャルをいかに引き出すかに関心を移そうと思う。(フォン・ノイマンでも人の知能をあまさず再現する芸当はできてないから、知能一般の謎というアプローチのが有意義なテーマだと思う)

それでTL😜Rすると、

賢いことには際限がなく、自分はどうしようもなく愚かな側だ

と自覚することが「賢い」という状態ではないかと考えてみた。

これは次の決意を表している:

  • 賢さの量は数直線のようなもので、人ごときが大きさを追いかけてもたかが知れている
  • 自分の両目は前にしかついておらず、頭は同時に1つのことしか考えられないため、毎秒毎秒沢山見落としている
  • どの瞬間もほとんどの意味においてレベル1のNewBeeだ
  • 判ったと思った時、こうしようと決めたとき、いつももっと良い手が視界の端に転がっている
  • だから常に頭を働かしよく観察し耳をそばだてていなければならない

そして、持続可能であるために、

  • むやみな高速回転は疲れるのでよくない
  • 景色がよく見えるマイペースで味わいながら歩を進める
  • 価値のある一手を選んで打っていく

以上の自覚を保ちながら行動すると、誰しもその人なりに賢く振舞った結果が得られるのではないだろうか。
(上記の自覚があればこそ、どうしたって自分は不完全なのだから気づいたことを積極的にアウトプットしてみることもまたアリだと思う)

これを人外レベルで維持し続けているかのようなイメージにピッタリなのが、福本伸行先生の漫画『賭博覇王伝 零』の主人公。そして、カイジは勝ちたい、という動物的な本能エネルギーが爆発した時に同じ境地に至って大逆転していると思う。

賭博覇王伝 零 1

賭博覇王伝 零 1

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人の知能は機械のように高速回転で大きな仕事をやるのではなく、ゆっくりと、ひょいっと階段を上がるように別次元へ別次元へと移動し続けるところが不可思議な特徴だと思う。

ところで

フォン・ノイマンの哲学』を読んで、頭脳の驚異について大いに楽しみ舌を巻いたものの、確かに地球人レベルを超越した火星人級の頭脳だったけれど、火星人連中に言わせたら「無能な働きもの」なんじゃないかとも思った。

彼は結局その頭脳でもって核兵器実用化に不可欠な貢献をしたが、今まさに噴出している人類文明にとっての大いなる汚物というか脅威というか課題を残したままさっさとおさらばしてしまった。

実用化にかまけず、その頭脳を核兵器無力化の理論なり実装に傾けていたら彼はもっと長生きできて重要な実績を増やし、状況を変えられたかもしれないのに。

何をやっているのか

書くこと

ブレーンストーミングで飛び出すような、ナイーブで無邪気なアイデア。 最終的な結論ではない、間違いを多分に含んていて、どんな化学反応を起こすだろうと好奇の目で見守る類の。
自分が書きたいことは、なんやかんやこれに落ち着いてしまうみたいだ。

とにかく頭を働かすとか、吐き出して冷静に眺めるとか、現実世界にも計算させる、という点で個人的に頼れるメソッド。

書いている場所

先のエントリにも書いたように、ネット空間は色々危険だと思う。
2013年ころならそれをあれこれ工夫して描写したはずだが、もはやその必要性はないだろう。

何しろ誰もいないことを確認して虚空に向かって打ち出しているのに、
時間と空間を超えてどこまでも飛んでいくのだから(0 × ∞ = NaN)

口は禍のもとともいうし、そっとノート(物理)に書き散らすのが賢い選択で、
実際そうしてきたが、そういうものが人知れず放棄されているネットがあればいいなと思う

Webサービス一般はそういう厄介な状況からユーザーを遠ざけますということをビジネスバリューとしてアピールできると個人的には思っている。

さて

そろそろ自分なりのプロトコルが満たされたかな

コメントについて

速攻でオフ。 I DO NOT Request For Comment. 個人的に不要な機能。

ここ十数年でよ~くわかった自分の性格によるもので、SNS 的なるものが色んな意味で超苦手である。

ちなみに学生時代にいただいたコメントはありがたく今でも好きです。
友人との交流目的で始めたブログだし、自分が求めていましたので。

ただ、自分のアイデアのメモ書きをするようになってから、なんだか窮屈で億劫になってしまった。

ネット上では炎上芸人なる哀しい文化発達が見られる一方
GitHub という成功し発展し続けているモデルもある。

誰かを攻撃するものではなく
たぶん基本的に自分の必要から書いたものを、
ひょっとすると誰かの役に立てばいいと思って公開して、
役に立たないなら無視しとけばいいし、
役に立つならフォークしたり自分のプロジェクトに取り込んで活用する

このモデルにはプログラミングでいう不変性の良さがある
すでにあるものに口をはさもうとせず、修正が必要なら自分のスコープにクローンして修正バージョンにして利用する

これなら衝突しないし、不具合もなく、炎上案件を乗りこなさなくて済む

Issues や Pull Request は作成者がソフトウェアをより良くする視点のために明示的に Request For Comment している前提があって意義がうまれてくると思う。

このモデルは発信情報が弾丸となって無限に放射し続ける危険極まりないネット空間において窮屈さを取り除くとてもよいアイデアだと思うので、そこに寄せたいと思った。
(「他者を攻撃するつもりは毛頭ないしそうならないよう全力で気を付ける」が必要条件)

はてなブログを使う

あえて使ってみた

昨今なら Netlify に Next.js とかで MacBook のターミナルから Vim で書いてプッシュしていきたいという誘惑もある

はてなブログは大学生の時分に書いたログの続きに書けるという
他のサービスでは実現できない唯一無二の特徴がエグすぎる
サービスがそれだけ長く続いているということはすさまじいことだと思う

前に使いづらいなと思っていた編集機能も改善されていて
いいね!👍 と思った

幸か不幸かゴールデンウィークのこのタイミングにほんの少し暇ができてしまったことが
この気まぐれにつながっていて、少し楽しめればよいのだけども

とりあえず記事は vim バインドの Sublime Text で MarkDown 形式で書いて、
コピペしています。API投稿とかメール投稿もできるようだが、手許の使い慣れたツールで書いて
とにかく投稿してみる、ということでやってみます

免責

ブログ記事について

はてな記事ガイドラインを読んだ

他者を傷つけてはいけない、という考え方に賛同したい
以下の項目は大まかな方針を表明しつつもバージョン 0.xx である

  • このweブログは決して役立つ正確な情報をお知らせしようとするものではない
  • 個人的なアイデアのささやかな独白であること
  • 他者を攻撃するつもりは毛頭ないしそうならないよう全力で気を付ける
  • もし読んでしまってくだらないと感じたら申し訳ないのでそっと閉じてほしい
  • まかり間違って何か着想のきっかけになったらそれで十分なのでそっと閉じてほしい

ということを反省確認しておく。
気兼ねない、息抜きとして書けたらブログサービスってのは素敵だと思う

いくつか追加

(まるでソフトウェアの仕様、使用上の注意みたい)

  • この免責以降の記事は細かい描写や内容や結論が書き換わり得る
  • Git のように丁寧に変更差分を保存したり明示したりしない

したがいまして、
不確かで信頼できないため、引用はすべきでないということになり、
確かなものは、読んだ時に感じ取った何かくらいである点をご留意くださいませ。 (窮屈であることを押しのけようとするとこんなことになってしまう)