「街とその不確かな壁」の個人的な感想

650ページ超の文章を脳裏になぞり続けたものだから、まるで映画館を出て興奮冷めやらぬ少年のようにところどころ文章が村上春樹調に引っ張られているかもしれないのはご愛嬌。

それほど具体的な内容に触れる感想は書いていないと思うものの、これから読むつもりの方はまず避けた方がよいと思うのでご注意を。

読み始めた当初、集中力がきれてどうしてもスムーズに読めなかった。多分、スマホ活字に毒されてしまっている。コンパクトな要約文を大量消費するように視覚を使いすぎており、文字列をたどる視線や思考が綺麗に直線を描けず、四方八方へ散らばってしまう。(まるで樹海脱出を試みる人が同じところをぐるぐる回るみたいに!)

村上春樹の小説は取っておきの楽しみの一つだったのに、あいにくと時間切れでございますと宣告されたようでひどく落胆した。

そこに現れた救世主は Youtube の暖炉の動画。


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パチパチと薪を焼く炎を尻目に読めば、本作の情景とも相性よく、ブルブルとした低音の振動が、絡みついてくる雑念を平らに退けてくれて本筋のスムーズな流れにありつくことができた。

最近の iPhone なら筐体の再生音でも申し分ないとは思うものの、Bose SoundLink を通したら低音に立体感がでてなお良かった。ただしASMRのようなティングルがじわじわ効いてきてやがて眠気に抗えなくなってしまうのが玉に瑕であるが。

自分はプログラミングをするために、ある文章のしかけ、構造がたえず気にかかった。

  1. 現在形を使う
  2. 固有名詞を排除する

現在形を使う

動詞の現在形というのは日常にそんなに出現しない。私は走るとか、彼女は絵を描くとはどういう意味だろうか。昨日10キロ走ったこととか、今絵を描いていることとは実は無関係なところが、現在形の厄介な性格である。

現在形は、動作というより「性質」についての言及である。「性質」とは持続することであって、具体的な時点から切り離されている。人間は時間の流れの中で動く存在なのに、そこから切り離してしまうためかなり特殊なメタい言及となる。そんな言及が起こるのは、それがニュースとなる場合に限定されるだろう。彼女は絵を描くと言及した以後、その人が生涯絵を描くことがなかったとしたら、その言及は嘘になるのだろうか。(実はそうではない)

さて、プログラミングはすべて現在形による記述を行う。ある1行はこれこれの動作を行う、であり、行ったでも、行うつもりでもない。PromiseFuture といった非同期プログラミングにしても「ここで約束する」や「ここで将来が発生する」といった具合である。プログラムは指定動作を行う宣言の集合体、つまり性質の構成であり、これがハードウェア上で走って初めて、現実の具体的な時間(実行時点)と接点を持つ。絵を描くように組まれたプログラムがついぞ実行されることなくDeleteされたとしても、それが絵を描くプログラムであることには違いないのである。

過去、完了、現在進行、未来といった具体的な時点とは切り離された、ややこしい名前の現在形。これを考えるとき、個人的に、高畑勲監督のかぐや姫で頭巾をかぶせられるシーン、瞬間的に生き物としての時間を奪い去られるようなシーンを思い出す。そのように何か重しのようなものをスッと取り除かれたのが現在形。

現在形は、現実の時間もとい質量あふれる物理世界から切り離された、想像上の世界(あるいは記憶の中の世界)への言及ともいえる。プログラムには質量が無く*1、実行されない間は現実に影響の無いアイデアとして留まっている。私たちは、あまりそれと意識せず2つの領域(物理と想像)を抱え持ち行き来しながら日常を過ごしている。

固有名詞を排除する

読んでいると遅かれ早かれ気づくことになるが、本作では固有名詞を排除する、という執拗な工作が施されている。これまでの村上春樹作品では、1Q84 の青豆さんとかヘックラー・ウント・コッホとか、たいへん手際よく海馬にねじ込んでくる巧妙な固有名詞を使っていたから余計に気になった。しばらく読み進めても小説の舞台が何国かすら判然としない程である。小説において固有名詞の排除はやはり無理があり、代わりに使用される「私」や「君」のせいで、SCPアノマリに汚染されたみたいに文が破たんしている箇所がある*2。また、固有名詞が避けがたい箇所では、それがうらみを受けた肖像写真のように切り刻まれている。それゆえに普通の固有名詞が出現した際は逆にギョッとした程だった。

さて、この固有名詞を排除する挙動もプログラミングでは通常の作業である。プログラミングでは具体的な値の代わりに変数を置き、一般名詞で名付ける。こうすることで、その部分がより汎用的に仕事をこなすプログラムとなる。ここでもまた、具体性を取り去ることで任意時点の状況に対応可能な性質を与える、時間性を取り去る工作が行われていると考えられる。

時間の流れの中で時間性を失いあるいは取り戻す

私たちは具体的な日常を過ごしつつ、同時に時間性の無い想像の世界にも住んでいて、その2つは確かに本体と影のようにピッタリはりついたまま生活が進行している。以前、二十歳をすぎたら時間の過ぎるのが早く感じることについてエントリを書いたが、それは生活の中で固定された現在形が強く現れるようになり時間が進まなくなったように感じるせい、とも説明できそうだ。

現在形による時間表現は間違いなくそのように意図されていて、本作中でも2箇所ほどそうしているよと、あからさまに書いているのを目撃した。

また、現在形を典型的に使っていたシーンが自然な過去形に切り替わるポイントがあり、物語の象徴的な転換点、時の歯車が現実の時点に噛み合ってズシリと抵抗を感じ始めたことを示唆する・予感させる効果を生じさせていた。(そしてすぐ、その変遷はやはり明らかとなった)

さて、作中にスコッチウイスキーが出てくるのだが、なんてことか、偶然ながら全く同じ銘柄が手許にあった。これまで村上春樹の小説に出てくる曰くありげでお洒落な固有名詞の数々は想像をたくましくするしかなかったところ、今回ばかりは運命と、登場人物と一緒にショットグラスに少し注いで、トワイスアップにして飲んでみたら口当たりが甘くなり、甘さの向こうから焚火のような泥炭の香りがやってきて、とても魅力的な味わいになった。

静かな深夜2時くらい、小粋な描写の中身はこれのことでしたかと、想像力に反則気味の答え合わせを添えてみたものの、ペナルティとして酔いの眠気でその日の読了はキャンセルとなった。

近頃、ラフロイグの10年に味をしめ、そろそろ2本目をと思ったら手近な店にはもはやどこにも置いておらず、父と二人で酒店巡りにでかけたのだった。10年がどうしても見つからず、父のとっておきの提案で寄った酒店でついに見つけた帰り*3、ついでに寄った近場の量販店の酒コーナーで*4、父が目をつけたのが Bowmoreの12年だった。昔からの行きつけのバーFrançoisで飲んだことのある懐かしのスコッチウイスキーということだった。

『走ることについて語るときに僕の語ること』を読んだせいで、村上春樹はとても頑健な身体の持ち主という印象を持っている。彼は自分のことを繰り返し、鮮烈なひと時を生き抜く駿馬というより、辛抱強くて息の長い頑健なロバのように描いていた。きっとまた新しい小説を書いてくれるものと期待している。次もまた同じように楽しみつつページをめくりたい。

街とその不確かな壁

*1:ドライブに大量のソフトウェアをインストールしても重量は増えない

*2:破たんすらいとわず、といった意志を感じた

*3:ほんの短期間で1,200円も値上がりしていた

*4:そこのラフロイグはセレクトカスクだった