異界の料理店 3

type-A

節操なく色んな理想を述べるがそれらが現実でどんな影響を伴って結実するかにはおよそ関心の無い者がいる。大抵、彼らに現実世界にも注意を向けるよう諭したところで通じない。彼らは己の才気の導くままに、途方もない御託を並べ続けることに没頭する。そんな彼らの話を聴きつづけなければならないとしたら、これはとても気の滅入る話である。


そんな連中の一人がギョウザだった。


私の淡い期待はすぐに裏切られた。ギョウザの主張はニラとニンニクに終止していた。それらは豚の肉汁と野菜のハーモニーを制して、親切にも始めから終わりまで青いにがみを世話してくれた。風変わりなタレはドロリとからみつき、酸味ではなくデザートのような甘さを添えてくれた。ギョウザはただただ自分のオリジナリティに酔いしれていた。



チコの実は 不思議な味の する実だね



これは異国(チベット系か)の王子が詠んだ句である。彼がその句を読ませた実を食べたとき、とても複雑な表情をした話は有名だが、私は彼の気持ちを理解した。私の味覚は着地点を見失い、かつてないくらい困惑した。



私は反射的に中華そばをすすっていた。苦しみを別の刺激で上書きしようとする防衛本能だろうか。しかし、それは中華そばだった。落ち着け、落ち着かねばと深呼吸すると、店内の瘴気が私の肺を侵した。ギョウザはあと3人いた。私は、自分の抱えこんだ苦しみを打ち明けるすべを完全に見失っていた。悪のりした幼い子どもが、ピアノを力まかせにでたらめに叩き続けていた。


お冷やに目が止まった。


彼女はただただ神々しい微笑をたたえていた。この時、私はお冷やがいなかったら正気を失っていただろう。そして、この時ほど歴史で習った中国の老子が実体感を得て浮かび上がったことはなかった。


持ち直した私は店内を見回した。


高校生や、サラリーマンや、子ども連れの主婦など、年齢を問わず様々な客が入っては出ていく。慣れた様子でメニューを注文し、薄暗い店内で事もなげにそれらを平らげていく風景は異様だった。無表情で食べ続ける彼らは、私に人間的なものを超越した強靭さを想起させた。私は現実感を失い、自分がメン・イン・ブラックか、あるいはゼイリブの世界に迷いこんだような気がしていた。


全てが終わってから、もうずっと昔に来たような気のする店の軒先で、私たちは今回の冒険について語り合った。それは湯水のように湧き起こり、いつまでも語りつくせそうになかった。この冒険譚ですら、到底完全とは言いがたい。ともかく、私は私をとりまくこの安定的な世界の断層を垣間見たのだった。


おわり

あとがき

一連の文章は、私が実体験に着想を得てただ面白おかしくこしらえたフィクションだと申し上げておく。このお店はどこなんだろう?などとはぜひとも考えずにお楽しみいただきたいのである。