type-A
昨日の日記にある『自由軒』で注文したチャーハン。*1
求めていたわけではない。ただ、不意に出会ってしまった。
本当においしいものを食べたその刹那、それは姿を消してしまう。
口に運んだ途端、焦げ付いたかぐわしさがやってきた。
それは炒飯に素晴らしく似つかわしいもので、他でもない、
これこそあらゆる食通が求めてやまない炒飯の香りだった。
塩加減もよい、
カニや豚や卵など具の味もよい、薬味の利きもよい。
しかし、そんな一つ一つを取りあげて吟味することが不可能なほど、
それらが溶け合ってできた奇跡のような全体が僕の味覚を支配した。
まるで、光と陰を見事に描ききった油絵の風景画を前にした時、
細かい絵の具のうねりが全体に溶け込んで見えなくなるのに似ていた。
幼い頃、夏祭りで買ってもらった焼きトウモロコシや牛串。
なんて美味しいんだろうと、僕はわけも分からずかぶりついていた。
炒飯を食べている間、実はそんな記憶が蘇ってきていた。
古くて懐かしい記憶が浮かんでは、それを追い求めるようにまた一口とかき込む。
次第に、食べようとしているのか、思い出そうとしているのか分からなくなってくる。
新しい客が喧騒に加わったとき、生温い風が舞い込んで僕は額の汗をぬぐった。
気がつくと炒飯は無くなっていて、かわりに爽やかな心地よさが残っていた。
これを書いている今も、あるいは食べ終わったすぐ後でさえ、どういうわけか
味をうまく思い出せない。不思議なことに食べたという実感すら薄い。
それは、食事というより、“炒飯という濃密で素敵な体験”と呼んだ方が
しっくりくるくらいだった。否、そうとしか呼べないものだった。
もはや僕はこの炒飯を忘れられなくなっている。
短いあとがき(今日は小説風にしてみました)
実際あったのだ、この人生には。
ブラックカレー
*2を超えるものに出くわすことが。