これを読まれた方は、お前はまたそんな言い古されたことをとお思いになるかもしれない。でもあえて、二十歳を過ぎたら早いで〜について考えた記録として少し書く。
これは、「二十歳を過ぎたら早い」というフレーズを何度か聞いたこと、そしてそれは確かにそうだなと思った事などを端に、自分なりにその説明を試みたものです。
日本人の二十歳という年齢にはおおざっぱに言って次のような特徴があると想定。
環境的には、
- 成長が終わって劇的な肉体変化がなくなる
- 世間が息づいている所に自分も加わる
内面的には、
- 刺激→記憶→抽象化プロセスが飽和し始める
- 物事を理性的に俯瞰する癖がつく
環境面の要素について補足すると、
- 多少の差こそあれいわずもがな
- おおざっぱに言って自立して飯を食うという皆共通のステージ、卒業みたいな終わりの無い繰り返しの世界
内面的要素については、
- 感じたこと思ったことが既存の記憶の組み合わせで表現され、新しい記憶になりにくい
- 思考の材料のために物事の範囲や限界について把握したがることで、一旦把握されるともう俎上にはのぼらない
両面の要素のコラボが進むと、毎日は永遠に続く今日になっていく。昨日、今日、明日がそれぞれ別の日なのではなく、全て同じ日になる。なぜなら、環境的には新しい刺激が少なくなり、内面的には刺激が既存ライブラリで無効化され、頭脳は情報処理を行わなくなり、時間が進んでいるという感覚が失われるから。
脳の情報処理が時間の感覚に関わると思ったのは、例えば熱した鉄板の上で土下座する10秒は1時間、卓球選手は超高速ラリーをスローに感じる、走馬灯、恋愛の中で永遠を感じることがある、みたいな話を聞いたことがあるから。つまり、脳が情報処理を活発に行うほど時間が沢山経過しているように感じるという示唆だろうと。
「永遠の今日」というと、呪いにかかった物語の主人公のようだが、実際には老い、太陽の運行、日常の細かい変化により毎日は別の日と認識できる。しかし、時間が経過したという実感は得られていないので、例えば、年の暮れについ先日が正月だったように感じたり、同時に20年前のことを昨日のように感じたりする。ただ、この加速感は二十歳あたりを遡ることはない。
そこで、日々新しい刺激をと考えるかもしれないが、下手すると時間感覚を失わせるライブラリの完成度が上がって、充実感は更に強い虚無感の脅威にさらされるかも。この呪いは、物事の限界と思っている部分に脱出の糸口があるかもないかも。
歯磨きチューブを買ってきたのですが、もともとそのシリーズはくるくる回して蓋を開けるタイプでした。しかし、買ってきたそれはそのまま引っこ抜くタイプに変わっていたのです。自分は頭でそれを分かっているのに、毎回くるくる回して蓋を開けようとしてしまいます。「老いやで〜」という批判もございましょう(笑 ただ、日々のくらし、思考が省エネ化、オートメーション化していると思ったわけです。
追加で考えたこと:
上の話は置いといて、もし時間の感覚がなくなると老いや死の恐怖というものが極端に増幅されるだろうな。そのような状態は、例えば5秒で1歳年をとるに等しい心地がするだろうから。古の王様が狂ったように不老不死の薬を世界中探させた話、あれはこの事と関係があるのかしらん。俺はもう十分に生きた!と、まるで疲れてベッドに倒れこむようにゆきたいものです。
※言いたいことがより思い通りに表現されるようどんどん修正を重ねています。