特に何もしなくても許されるような気のする時期を過ごしていると、身の回りで生じる一個いっこのものごとが億劫に思えてくる。祭りが終わった後の屋台を見るような空しさがただよいはじめる。気づかないくらいじわりじわりとそうした変化が訪れる。
「時間はあるのだから、久しぶりに喫茶店でコーヒーでも飲もうか。」
落ち着いた灯り、柔らかいソファーの感触、ふわりとしたコーヒーの香り。こんなイメージにグッと引き付けられてそんなことを考えるが、すぐにどうでもよくなってしまった。
確かによいものだけど、そんなものを味わったって何になるというのだろう?と、心の声は言っているように思える。どうやらまた始まったみたいだ。
追い立てられている時期は、“やりたいこと”が十分にやれなくて、鬱憤がたまる。その開放が動機付けになる。
追い立てられている時期は、“やりたいこと”をやる機会が殆どなくて、希少価値がでる。今しかないというのが後押しとなる。
追い立てられていない時期には、“やりたいこと”にかかった魔法がとけて、目標を見失った心が虚空をさまよいはじめる。
そんな時間が長く続くと、だんだん絶望的な気分になってくる。
ふたたび追い立てられる時期が始まると、そんな気分のままで仕事に取り掛からねばならないから、いい加減僕はこれを何とかしたいと思っている。すでに侵食は始まっている。さて、どうしよう…?