青い太字の所だけお読みください^^

東大式 絶対情報学

東大式 絶対情報学

ち読みしていて速読法について考えさせられました。あ、これは本のレビューではないので悪しからず。


東大式 絶対情報学 伊東乾 著』が平積みになっていたのを、何気なく手にとって読み始めたのですが、自分には珍しいことにそのまま読了してしまいました。中に夏目漱石などの速読についてのエピソードが紹介されていて、読書量があきれるくらいに桁外れでした。その決定的な事実を自分の文脈で理解しようとしたら(恐れ多くも天才を自分の理解の下にひっぱりこもうとするのは僕の癖です)、速読がどういうものか、あるいはどういうものでないか、自分なりの手ごたえをつかんだ気がします。40ページも読んだらやめようと思っていたのを最後まで読むことにしたのは、筆者がそう読んでみなさいといっているように感じたからです(ある意味筆者には申し訳ないけれど)。

ころで、自分がいつも無意識にやっている読書は、一文に取り組むというものです。一文の中で使用された単語の定義を呼び出し、それらから構成される意味をあれこれ考え、筋に照らして妥当なものを見つけたら次の一文にとりかかります。難しい論文などに取り組む際に理解力に乏しい自分が暗中模索で歩を進める唯一の方法です。あるいは、レポートを作成する際の方法でもあります。だからまあ、これはこれで必要なわけです。ただ、この方法は効率性を犠牲にしてでも正確さを追求するものなので、納得いくまで心理的に次に“進めない”し、反芻を経た結果その一文が重要でないと分かるなど割に合わないことがままあり、とても億劫です。40ページも読めば一仕事終えた心地がするわけです。

れに対し、速読は映画やぱらぱら漫画のイメージです。目は文字を次々と追いかけ、意味の呼び出しは頭脳の反射的な機構に委ね、意識上の正確性に対する責任は大体放棄するようにします。このように止めどなく文をなぞっていくと、その流れの中に文脈が浮かび上がる感じです。貧乏性ゆえ手放そうとしなかった一文一文の文意は、流れの中で文脈に寄与するようにダイナミックに修正され、次第に正確性を増していくようでした。“責任の放棄”を無意識に避けていた自分はある種読書の楽しみを見失っていたと思われます。考えてみれば、マジックナンバー7からも察せられるとおり、およそ記憶に残るのはざっくりとした文脈であって、膨大なディテールはむしろ文脈から再生産するくらいで丁度良いのかもしれません。

なみに(という扱いも失礼ですが)本書は東京大全学生の必修講義の一つである「情報」を軸に内容が展開されていて、情報社会と情報に向きあう姿勢や能力の身につけ方、高品質な仕事のこなし方が、情報における人称、3つのアイなど基本的な考え方やその他実践的なヒントによって提示され、発見がありました。伊東乾先生(著者)の講義にかける熱意は篤く、良識の人であり、そんな講義を受けられる学生はとても幸せだと思います。慣れない速読で理解が心もとないのですが、それでは勿体無く、今度は熟読しようと思っています